Denali's Room 一語一絵

旅と猫とあんことスイカを愛する絵描き、デナリこと大野舞が日々をつづっています。

2013年02月

写真 2013-02-22 12 33 56

頂いた文旦を食べようとして、そのあまりの過保護っぷりというか、皮から実にたどりつくまでの白い部分の厚さにびっくりいたしました・・・。更に種が多い~。とっても美味しいのですが、栗を食べるより大変でした。蟹に近いものがある。
断面をじっとみていたらナマケモノに見えて仕方なかったので。
こんな努力を必要とする果物であるにも関わらず。

papa

父、しげるのプライバシーを保護しようとしたら、なんだかすごく怖いことになってしまいましたが、気にしないでください!
先日、実家にて父の誕生日会をしたのですが、その日は父が会社生活を引退する日でもありました。還暦のお祝いはもう4年くらい前に終えているのですが、その後も会社員を続けていたのです。新卒で入った会社に、定年になるまでずーっと勤めたので、その期間なんと42年間!
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hearing

静寂が得意ではない。
この「得意でない」は嫌いではなくて、その逆。静寂がそこにあるとそれが大切に思えすぎてしまって、「その静寂が破られる瞬間」ばかりに気を取られてしまう。まわりのちょっとした物音とか、誰かの咳払いとか、静寂が完璧であればあるほど、ごく小さな音が気になってしまって、落ち着かない。

それだったら雑音がある方がいい。完璧な静寂なんて最初からそこにない方が、それが「壊される」ことを心配するい必要がない。だから私はいつもラジオをつけたり、音楽をかけたり、集中するために逆にざわざわしたカフェに行ってしまったりする。そうして脳の一部を、雑音を聞き流すために割いている方が、脳の反対の片隅に真に静かな真空の空間が生まれるように思える。

(雪の日だけは違う。雪の日だけは、何の音もしていないのに、それを「聴いている」ような気持ちになって、何の雑音もいらない。積もった雪は音を吸い込むから、外に出ると世界中が静かで、自分の声も呼吸も全部白いものに吸い込まれて、耳が遠くなったような感じがするのも好きだ。)

人が生活している空間で本当の無音なんて、特殊な環境でもない限り、ないのだけれど。

ちょっと違う例えのような気がするけれど、私は本が大好きで、本屋さんが大好きで、でも、図書館とか、あまりにたくさんの本がいっしょくたにある空間に行くと、かえって落ち着かなくなってしまう。(更に図書館は静か~なので余計だ)こんなに本が好きなのに、たくさん読んできたはずなのに、まだまだ見たこともないような本がここにはこんなにある、一生かかってもきっとこの一部だって読みきれない、そう思うとものすごく怖くなってしまって、早々に逃げ出してしまう。

愛しているのに、それがあまりにまっすぐに純粋に、存分にありすぎる状態に恐ろしくて耐えられない。それがなくなることや、達成されない、という絶望に気持ちがいってしまうから、それならそれがある程度制限された不便な空間や、最初からそれがない場所の方がいいと思ってしまう。

こういう感じは一体何から来るのだろうと思うけれど、昔からそうだ。何から逃げているのか自分でもよく分からないのだけれど、かっこわるいんじゃないかと思う。無音の空間にいられる人、雑音がなくてもへいちゃらで静寂とちゃんと向き合える人に憧れる。無限に思える何かと、有限な自分を認められる状態で向き合える人に憧れる。

雑音があってうるさくても、意識的に耳をすませば、必要な音はちゃんと聴こえるはず。無限に何かがあっても、必要なものはちゃんとこちらにやってくるはず。そういう風にのらりくらりとかわしてきたけれど、それでは何も「取りに」行ってない。そんなちょっとゾッとするものをちゃんと背後に受け止めながらまっすぐ何かを探せるようにようになりたいなあと思う。

無音の無限的なものの中にしばらく身を置いてみたときに、はじめてそこで聴こえてくる小さな、大切な音があるんじゃないかという気がする。

ひとりごとでした。

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