7
私は無事だし、こうしてブログを書いたり出来ます。
大津波警報が出ていた神奈川の海沿いの実家も大丈夫でした。
岩手にはまだ連絡がつかない友達もいるし、被災地に家族がいる友達もいます。今も命の瀬戸際にいるひとたちが多くいて、なにひとつ収束していない中、なんでコーヒー片手にブログを書いているんだろうと思うけれど、自分も何かしらバランスをとろうとしているんだと思います。みんな「今こんなことしてていいのか」「わたしも何かしなくちゃ」って思って必要以上に疲弊している気がする。「いつもどおり」でいることも「できること」の大事なひとつだと思う。
命をかけて現場にいるわけじゃない。お金を集められる力もない。
できてないことの方が圧倒的に多い。でもできることもある。
できないこと、する必要のないこと、できること。
これらをちゃんと見極めていかなくては。

こころは、全力で祈る。
からだは、平常心で動かす。
余震への備え、節電、寄付、掃除、料理。
あとは絵を描く、いつもどおりに。
これまでにも何回か聞く機会があった、日常が壊れる音、というものをとても臆病な私は心底恐れている。それは頭の中に響く空気の革命のような音で、1秒前と1秒後で、世界の色を180度変えてしまう。泣いても叫んでも絶対に戻れない昨日までの愛しい世界。

今回の音は頭の中だけで鳴ってなかった。地震のとき私は今年ちゃんと習おうと思っている陶芸教室の体験コースを受けていて、知らない人たちに混じって必死で粘土を捏ねてお皿を作っていました。揺れが来てわけもわからず外に出た後は、目の前の光景が非日常すぎて理解するまでに時間がかかった。地面が揺れて、電信柱が揺れて、家が揺れて、教室の中に山と積んである器の作品たちがガシャーン、ガシャーン、とすごい音をたてて次々と割れている。そして私は初対面の人たちと、抱き合って震えていた。
それが、今回実際に聞こえた日常が非日常になる音。

その後も何度も大きな揺れが来た。教室にはテレビがなくて、ラジオの放送をみんな食い入るように聞いていた。最初の揺れがおさまってから、大事な人たちの安否を考えた。電話もメールもつながらなくて泣きそうになったけれど、それはみんな同じだ。身を寄せ合っているのはまだ名前も知らない人たちなのに、いま一人じゃないことに心から感謝した。みんなで大丈夫、大丈夫と声をかけあって、情報を共有している。こんな時に自分のことよりも先に全員の無事と作品の安全のことを考えている先生とお茶やお菓子を配っているアシスタントの方の姿を見ていて、そんな場合じゃないのにここに通おうと思った。

一通り揺れが来たあと、白昼夢を見ているみたいな光景の中家まで歩いて帰った。そんなに遠くじゃなかったから1時間半くらいで帰れたけれど、こんなに路上に人が歩いている東京を見たことがない。こんなに人がむらがっている公衆電話やコンビニを見たことがない。それでもみんなパニックになることもなく、道を譲り合って、声をかけあって、階段では高齢の方を助けて、黙々と歩いていた。不思議な感じだった。メールやtwitterで家族や友人の安否を確認した瞬間、安堵で足がヘナヘナとなる。自分の身の回りが無事だったらそれでいいとは思わないけれど、やっぱりほっとしてしまう。今回iphoneに本当に助けられた。つぶやきの言葉で随時みんなの状況が分かったし、viberで電話も繋がったし、googlemapで方向音痴なのにはじめての場所から家に帰ることも出来た。

家のドアを空けてびっくり、空き巣が好き放題遊んでいったみたいな感じ。ガラスは割れて、時計は落ち、MDコンポもすっ飛んで、全ての家具が変な風に移動している。それでもまず家がちゃんとあることに安心したし、部屋を片付けるくらいで済むなんて、失ったのはまた買えばすむものだけだなんて、なんて幸運な事だろう、と思った。ノロノロと作業をした。
一旦部屋を片付けてしまうと何事もなかったかのように思えて、でもテレビをつけたら見たこともないような光景が延々と繰り返し流れていて、頭が混乱する。あってはいけないような事が起きたし、それは今もまだ続いている。余震が来るたびにビクッと体を震わせる。それでも私は自分の部屋にいてごはんを作ってお風呂に入ったりふとんで寝たりしている。そんな日常と非日常が入り混じったゆがんだ時間がずっと続いている。

人間は、傷つきやすい。
地球がもたらすものの前には、悲しいくらい無力だ。
人生には、理不尽なことや、耐えられないくらいの悲しいことが突如やってくる。今日と同じような明日がちゃんと来る可能性は、本当はいつだって半々だ。全ての出来事に意味がある、これは起きる必要があることだった、葛藤は手放そう、なんてこんな時にはなかなか思えない。家も家族も身の回りの人も無事で、部屋でテレビ観てる私に何が分かるんだと言われたらそれまでかもしれない。

それでも何ももたらさない出来事はない。真っ暗な中にも光はあるし、地震がもたらした多くの絶望の中にもキラキラする善き何かがあちこち落ちている。壊れかけていた絆が強まるという事もあるだろう。これまで気づかなかった優しさ、温かく強い力を自分の中、人の中、社会の中に見つけることもあるだろう。これまで当たり前だったものを、これからもっともっと大切に出来るようになると思う。

被災者を救おうと思う気持ちや、それを具体的にする誰でも簡単に参加できる多くのプロジェクト、世界中からの救援、自分のことを二の次にしても助け合う力に、何度も心が揺さぶられて、ひっぱられた。国や人間の「素の在り方」みたいなものを感じた。ひとつひとつの小さな動きが束ねられて、どんどん大きな振動になっていくのを目の当たりにして、twitterでもなんでも、個人が発信できるという事の力に目からうろこが落ちた。
阪神大震災の時にはこんな事はなかった。あの時私は神戸にいるおばあちゃんの名前がテレビが流している「亡くなった人」の中にないか、泣きながら画面を見つめていることしか出来なかったし、携帯電話もなくて家族みんなでひたすらオロオロしていた。(家は全壊したけどおばあちゃんは元気で無事でした)「何かしてくれる」「何か出来る力がある」のは国であって、自分や、見も知らない誰かではないと思っていた。その時から今までに確かに、何かが変わったんだと思う。

国も人間も、こういうときに本当の本来の姿を見せる。普段注意深く隠している部分も、一気に表面に浮き彫りになる。良いことも、悪い事も。だから悪い部分はごまかせない。だから強まっていく光には救われる。津波は外からやってきて日本をゆさぶったけれど、今生まれてる大きな波は、津波より強い力になって外に広がって、これからもまた何かを変えていくと思う。

人間は、傷つきやすい。でも、強い。
今はただ、祈る。
岩手の友人と早く連絡がとれますように。
失われてしまった命たちが正しい場所に行けますように。
そして今まさに流動的な状況にある人たちがどうか、1人でも多く、1分でも早く、1メートルでも安全な場所へいけますように。

物理的な力もスピリチュアルな力も、今の日本という国そして人間が持てる力の全部で、潜在能力まで全部集めた底力で、少しでも多くの命が助かりますように。
全力で助かろうとしている人たちと、全力で助けようとしている人たちに、この宇宙全てのエネルギーが味方しますように。

こんな風にまとめたって、何も変わらないけど。
今おきてることの何の役にも立たないけど。
でも、書く。言霊の力もきっとあるから。