おじいちゃんの時計
連休は避難ではなくただの帰省をしてきました。家族の顔を見て、ごはんを一緒に食べて、こんな時でも大盛りなゆうき食堂に行って、映画を2本観て(「プレシャス(→とても良い映画だったけれども、気分を明るくしたい時に観るのはおすすめではない感じ・・)」と「第9地区(→今までのエイリアン映画と全然違う切り口でいろいろびっくり。楽しかった)」)、猫たちを存分になでまわして、嫌がられて、と特に何もしていないんだけど、心がほどけました。やっぱり地震からずっと東京の一人暮らしの家にいて、心が自分で思っているより緊張してたんだな、と思いました。家族が無事に集えることに、改めて、感謝。それだって永遠に続くわけではないのだから、しみじみとその時間をかみしめる。
おばあちゃんと2人でおじいちゃんのお墓参りにいった。おじいちゃんのお墓は高台にあって、風がとてもきもちいい。帰りに湘南国際村のカフェでしらすピザを食べてコーヒーを飲んでいるときの会話。
私が「地震の時家に一人で、怖かったでしょ、本当いやだよね」と言ったら、「でも別に人間が居ても居なくても地球は揺れてるわけだから。人間がたまたまそこに住まわせてもらってるだけだから。」とこざっぱりとした返事が帰ってきた。かっこいいぜ。どれだけの恐ろしい天災でも、当たり前だけど地球は悪くない。地球にしたら地震も津波もしゃっくりやくしゃみみたいな生理現象で、何の意図があるわけでもない。むしろ地球は普段人間に対して寛容すぎるほど寛容で、だからすぐに奢ってコントロール出来るものみたいに捉えてしまう。あらためて、地球に暮らすというのはどういうことなのかということを考えた。とても厳しく、でもやっぱり、美しくて優しい。
ともかく、うちのおばあちゃんに限らず、今回の一連の流れを観ていても、若い世代より高齢の人の方が断然どっしり落ちついているなあと思う。物事に動じず、てきぱきとしている。やっぱり積み上げてきた人生の時間と経験、肝の据わり具合が違うんだな。私もこれからそういう風に、物事を受け止められる力を鍛えて年をとってゆきたい。

そんな中、地震の時に実家で起きた不思議な出来事。うちにはリアルに「おじいちゃんの古時計」があって、ものすごく古いもので、もうずっと動いてなかった。それはなんと、おじいちゃんが生まれた日にひいおじいちゃんが買ったという100年くらい前のもの。おじいちゃんが生きている時から既に動いてなくて、修理にいくら出してもだめで、だからただのインテリアになっていたのです。そしておじいちゃんが10年前に亡くなったあと、おばあちゃんはわざと「おじいちゃんが亡くなった時間」に時計の針を合わせていた。
その時計の針が、今回の地震と同時に、動き出したのです。どれだけ直そうとしても、直らなかった、古時計。地震でどんな力が働いたのか、まるでずっと動いてたみたいにボーン、ボーン、と、古めかしい音を立てています。
おじいちゃん、地震でおばあちゃんが心配で戻ってきたのかな~。それならば本当に心強い。今もまだ時計はそのまま動いています。
ただ、そのボーン、ボーン、の鳴り方がちょっとおかしいというか、1時なのに7回鳴ってみたり、8時なのに3回鳴ってみたり、真夜中の変な時間にボーンと1回だけ鳴ったりする・・・・その気まぐれに遊んでる感じがまたすごく、とてもお茶目だったおじいちゃんぽいんだけれど。
でもせめてボーンボーンの時間と数はちゃんと守って~!
正直、びっくりするから!笑
とにかく戻ってきてくれてありがとう。
これからもおばあちゃんを守ってあげてね、おじいちゃん。
Photo 3月 21, 21 09 21
これが、実物。カチ、カチ、と時を刻む音を聴いているとやっぱりあの歌が頭の中に流れてくる。(平井堅バージョンで。)