ねこなべ

「ちょうど良い湯加減」

人と人との関係性とは焚き火の上のお鍋みたいなものだなあと思う。常に気をつけて見ていないといけないし、火力を調節しないと焦げたり冷めたりする。電気の鍋みたいにスイッチのONOFFは簡単にはできないし、ぬるま湯状態を自動的に保ってくれる便利な保温機能なんてない。焚き火なのだから薪を補充しないといけないし、狙った火力になかなかならない。

「ちょうどいいところ」をずっと同じ温度のまま保ってゆくのは難しい。適温が人によってもタイミングによっても違うものだというのが一番の理由だと思うけれど。パスタが1分早くても1分遅くてもアルデンテにならないように。サーカスの空中ブランコのように、ちょっとしたことで正反対の結果になったりする。日々いろいろなことは変化し、時間はどんどん過ぎていく。思ったようにいかなくて後悔したり寂しく思ったりもする。

それでもたまに奇跡みたいに、ちょうど良く素敵なところが保たれる場合もあって、そういう時は祈るように幸せな気持ちでその中に浸る。その感じが永遠に続きますようにと願う。温度があがりすぎないようにさがりすぎないように、じっと見つめて鍋をかき混ぜる。

もし何かがずれたり、うまくいかなくて、焦げたとしてもきっと食べられる。冷めても、あっためられる。何か全く別のものを入れてみることも出来る。見た目が悪くても。諦めて捨てさえしなければ、可能性はそこに煮えてる。
適温の保温と、日々の変化。どちらに対しても尖らず鈍らず、大切なものにちゃんと時間と心を割ける人間でありたいです。

ところで話は違うのだけれど、私は絵を描くときにもいつも、大きな大きな大鍋を頭の中に思い浮かべます。意識的にそうしようと思っているのではなく、自然にイメージが浮かんでくるのです。ラーメン屋さんにあるみたいな寸胴鍋ではなくて、中世の魔女が使ってそうな?丸みのある黒い大きな鍋。その水面を見つめてかき混ぜて、底の方から像の焦点が合うのを他人事みたいに待つのです。

何故か、いつも、鍋。
「大鍋」がきっと私の魂にとって何か意味があるものなんだと思います。
実際作る料理も、じっくり煮込むものが好き。だからなんだっていう話だけれど。