tobu

先日聞いて納得したインドのお坊さんのお話。

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インドの山奥で修行をしている高僧とその弟子。

弟子は、弟子であるにも関わらず、ちっとも師の言うことを聞かず、自分のやり方にこだわってばかり。
そんな弟子に対して、ある日師はこんなことを言う。

お前がひとつの器だとすると、そこには既に水がいっぱいに入っていて、
ちっとも私のそそぐお湯が入る余地がない。

お前は、お湯が入ることで、温度が変わって、自分が変わってしまうことを恐れている。

しかし、恐れることは何もない。
お前の形はその水によってではなく、お前自身という器で決まっている。
器の形がしっかりしていれば、中に入る液体が何であっても、お前自身が変わることはない。

だから、少しは器の中をあけて、私のお湯を入れてみてはどうだ?
熱いお湯も、やがてはお前自身の中でまた水になってゆくのだから。

それから、弟子は師の教えをきちんと守るようになりました。

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というものでした。
相当かいつまんでるし、印象をまとめただけで正確ではないかもしれないけれど、だいたいこんな感じ。

そうだなあ、と思って。とても心に残りました。

自分が自分だと思っているものに頑なになってしまうことってあって。けれど自分が自分だと思ってるものはわりとあやふやで流動的で、実はそんなに固執したり、執着したりするほどのものでもなかった、って何かあって後から気づくことってよくある。

新しい考え方、新しい場所、新しいジャンル、新しいスタイル。

これまでの自分が根っこから変わってしまうかもしれないような、1滴の熱湯。

自分という輪郭(=器)さえちゃんとあれば、変化を恐れることなく受け入れ、それを自分のものにしていくかどうかもまた、自分で選べるようになるんだと思う。

それが、挑戦なんだと思う。

必死になっていたり、余裕がなかったりすると、すぐにこの弟子のように「もう何も入らない!」みたいにギリギリの状態になってしまう。

表面張力タプタプの状態で、目を血走らせて、疲れないはずがないし。

こだわるのも、大事。でもときにこだわりを手放す思い切りも、大事。
その選択が出来るようにするためには、やっぱり器の中の空間、空気が重要だ。

だから人は深呼吸をするのかな??