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もうずいぶんと前のこと、8月頭のことなのですが、生まれてはじめて「豚の丸焼き」を食べました。友達の石澤夫婦のおうちで、花火を見るというコンセプトで開かれたホームパーティだったのですが、そこに登場したのです。大阪から空輸されてきて、わざわざ羽田空港まで迎えに行ってくれたというその豚さんは、かなり大きく、2~30キロはありそうに見えました。
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どーん!!眺めの良い景色をバックに、このインパクト。豚の丸焼きなんて、漫画肉の世界。

シェフのさとさんが、ぐいぐいと男らしくさばいてくれて料理もしてくれて、みんなでサンチュに巻いたり、パスタになったりしたものをそれはそれは美味しく頂きましたが、私はお肉に、ただ岩塩をちょっとふったものが、本当においしかった。命の味。
この豚さんが食べても食べても全然減らない。大人が15人くらいいて、みんなでガツガツ食べているのに、全然減らないのです。そりゃそうだ、普通スーパーで買う1人分のお肉なんて100グラムくらいなんだから。

ひとつの命、1頭の動物が、満たせる胃袋の量ってすごいんだなあと感動してしまいました。イヌイットの人たちが狩りをして、鯨を捕まえると、鯨の魂への感謝も込めて儀式をするのですが、豚1頭でこれだけみんながおなかいっぱいになるんだとすると、鯨が1頭とれるということは、きっと村中の人が冬中飢えないということ、その悦びたるやどれほどでしょう。

本当に当たり前のことなのですが、1頭の豚の中にヒレとかロースとかいろいろな部位があるわけで、それぞれ硬さも違うし油の量も味も違う。「ヒレ何グラム」とかスーパーで細切れになったパック入りを買っていると、そんな当たり前のことさえ、ついつい忘れがちになってしまう。
「いのちの食べ方」とか「豚のいた教室」とか「銀の匙」とか、生命を食べることをテーマにした作品はいくつもあって、よく観ますが、やっぱり目の前で一頭の豚を食べる行為の方が自分を変えるんじゃないかなと思いました。(別に飼っていた豚じゃないけど。)魚釣りをして、自分で釣った魚を食べたときも同じように思いましたが、なんだろうね、やっぱり哺乳類だとまた違う気持ちになるというのが正直なところ。

そういえばアラスカ留学中に友達の家に夜ご飯に呼ばれたとき、庭にたくさんウサギがいて、「わ~かわいい~」とか言って遊んでたら、その後の夕食のときにそのさっきまで飛び跳ねていたウサギがこんがり焼けて出てきて、ものすごくいろんなことを考えながらそのウサギのソテーを食べたときの気持ちも思い出しました。しかも、ウサギの尻尾はLucky Charm(幸運のお守り)だから、といわれて、帰り際にお土産として手渡された・・・。

豚さんは結局食べきれず、私もお肉をお土産にもらって、脂肪はラードに、骨はスープのだしに、と、皮以外全部活用したそうです。花火がとても」綺麗だったことも、豚を食べているとき、みんなどこか集中して無言がちにその肉を味わっていたことも、忘れられない夏の思い出。
食べることが大好きですが、でも私は生きた豚どころか、多分ニワトリ1匹すら、自分で殺して食べることはできません。追いつめられたらできるかもしれませんが、でもどこをどうしたら一発で絞められるのかとか、血はどうやって抜くのか、内臓はどうやって取り出すのか、全く分からない。東京に生きてると、その自然界では当たり前の生々しさへの距離はものすごく遠いのです。けれど、無知の知じゃないけれど、その「距離の遠さ」のことを常に意識することはできる。肉、魚、野菜全部含めて、その命のもとの姿を忘れないように、一食一食を体験したいと思いました。

豚さん、ごちそうさまでした。
タイシャンともちゃん、ありがとう。

1ヶ月以上前のことなのですが、あれから豚を食べるたびにこの日のことを思い出すので、書きました。
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