ShowLetter.jpg

「デナリ、空を飛ぶ」

生まれてすぐの風邪が治ったあと、デナリは全く健康に、極寒のアラスカですくすくと大きくなっていきました。その時期には、私は学校で演劇部に入っていたので毎日放課後練習が入ったりして、帰りが夜遅くになることも増えました。(そのときは、「屋根の上のバイオリン弾き」の大道具係をやっていました。うちの高校の演劇部は相当大きくて、演劇部に50人以上のオーケストラ部の生徒も加わって、学校からの資金援助もあったので、高校生レベルをはるかに超えたすばらしい舞台だったと、今でも思います。)

友達が増えて英語が話せるようになって、どんどん楽しい時間が増えていくにつれ、デナリと家ですごす時間は減っていきました。やっぱり、人間ってわがままです。
それでも、やっぱりデナリの存在が、私にとってはものすごく大きかった。
家に帰るたびに飛び出してくるデナリを見るたびに、私はうれしくてしょうがなくて。
学校であった楽しいことや、たまに落ち込むこと、私は部屋でよくデナリに話していました。
そのうちにデナリ見たさに友達が私のうちに泊まりにきたりもするようになりました。
オーロラが出ていた夜、私はデナリと一緒にそれを見ていました。
「早く帰りたいなあ」は、いつのまにか「ずーっとここにいたいなあ」に変わっていました。
そして、半年とちょっと、たった日。
私のアラスカを去る日が近づいてきて、いよいよ、デナリが日本へと旅立つ日がやってきました。デナリは私が一緒につれて帰るのではなく、先に飛行機に乗せて日本に送って、成田空港でうちの両親が迎えに行くという流れになっていました。その頃、検疫のシステムが今よりゆるかったため、空港からすぐに家に連れて帰ることができたのです。
忘れもしない、1998年6月の早朝、私とお母さんはデナリを空港に連れてゆき、「LIVE ANIMALS」と書かれた大きなケージにデナリを入れました。飛行機に乗ってる間、パニックになったりしないように、とデナリはマタタビ成分みたいなものの入った注射をされて、くったりとなりました。私は、デナリが寂しくならないように、デナリのお気に入りだった黒い猫のぬいぐるみを一緒にケージの中にいれました。
またすぐに日本で会える、そう分かってはいても、やっぱり涙があふれました。
でも、それよりももっと印象的だったのは 最初は猫を飼うのにあんなに反対していたお母さんまでもがボロボロと泣いてさみしがっていたことでした。

そうして、デナリは、空飛び猫となったのです。

世界広しといえど、アラスカから1匹で太平洋を越えて、日本にやってきた猫は他にいないんじゃないかな、と思います。1日もたたないうちに、日本の両親から「デナリと会えたよ」という電話がきて、すごく現実感のない気持ちがしました。今朝まで私と一緒にいたデナリが、今は私よりも先に日本に着いてるんだ、と思うととても不思議でした。

留学生だった私と、ひ弱なアラスカ猫、デナリ。一番大変な時期を一緒に乗り越えた、娘のような存在。デナリがいてくれたから、私はアラスカであんなに笑ったり泣いたりできたと思います。

私がアラスカを離れ、1年ぶりに日本に戻ったその日、「ただいま!」
と言いながら私が実家のドアをあけたら

ちょっとだけ大きくなったデナリは、やっぱりバタバタと走って飛び出してきました。


----------------------------------------------

これが、デナリと私の、ほんの半年のスペシャルな時間の物語。
実は、デナリが日本についてから、私が日本に帰るまでの間に、今でもうちの家族の間で語り草になっている「デナリ行方不明事件」なるものが起きたのですが、その話はまた今度。