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ノイズムという日本のコンテンポラリーダンスの最高峰のカンパニーの公演にお誘い頂き、観にいってきました。コンテンポラリーダンスを見るのはイデビアンクルー×2回、ダズル、ニブロールに続いて5回目。カンパニーによって本当に違う。全く違う。そしてそこがおもしろい。
今回私はステージの上で観ました。普通の客席はもちろん舞台上にも観客席が設けてあって、つまりは1つの舞台をはさむ形で観客席とステージ上から、全く反対側から観るというコンセプトになっているのです。書くと普通のことのように思えますが、実際すごい体験だった。ステージ上の客席は少ないから、そこに座っていると目の前に普通の席に座っている何百人のお客さんたちが普通にどわーっといるわけです。しかも、自分と向かい合う形で。別に自分が観られているわけでもないのに、妙に緊張してしまう状態。
どちらから見るのかで、全く違う舞台だろうなあ、と思う。
そして、その中央で繰り広げられるダンス。
マジックミラーと照明という舞台装置をうまく使って 見えていた人が次の瞬間ふっと消えたり 向うにも人がいるんだと思ったら鏡に映っているだけだったり その逆もあったり とても幻想的だった。
そして人間の肉体というものが いかに ある意味”装置的”になれるのかということを感じる。そこにストーリーとかメッセージとかは必要じゃなくて 

ただ、あるだけ。
有機的な楽器のように。
ものすごい肉体の使い方だ。

そこにストーリーとか意味を求めてしまった時点で 多くの制約が生まれる。
例えば演劇だったらば
とりあえず舞台上の人物がしゃべっている言葉を観客は理解できなければならないし
起承転結的なもの、少なくともひとつの物語のはじまりとおわりがなければならないし 
2人以上登場するならば人物の関係性は一定でなければならないし
(一場では親子だったのにニ場ではいきなり恋人になってるとか、そういうのはないだろう、さすがに)
張った伏線はどこかで収束させなければならない。
少なくともそうじゃない舞台を私は見たことがない。

でも、そんなに数を見ているわけではないからえらそうに言えないけれど、ダンスの舞台はとても自由だ。そして制約がない状態で 表現されているものだからこそ 本当に反射と連鎖反応で生まれているもの、脳からではなくて末端神経から生まれているもののように見えた。

自由ということは 苦しいことでもある。
何の道もガイドラインもない地平線を どっちに進むのか。道をたどっていく方が当然楽なことだ。
「しなければならない」が何一つとしてないときに
何をするのか、でその人が見えるのだと思う。
仕事もない、予定もない、ブランクの休日にじゃあ何をするのか、
何に自分の時間とお金を使うのか、でその人が見えるように。

おもしろかった。また行きたいと思います。

ただ所謂アフタートークというものが蛇足的に思えたというか
あまり説明を聞かずに「そういうもの」として観る方がいいと思う。
末端の反射で生まれている動きに 後から脳みそが参戦する必要はないと思から。