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6月26日。
またこの日がやってきた、九回帰。
私たちがあの踏み切りに集うのも九回目。
18歳だった彼より9歳も年上になってしまった。
今年もまた踏み切りへ行き、そして学生時代によく行っていたお店で飲んだ。

八回帰の日の日記を読んで、思う。私はちょうど去年のこの日、会社を辞めて絵で独立すること、そして地球一周の旅に出ることををこのブログで報告しました。
自分を見つめなおす日。
自分自身に問いかける日。
元旦よりも 誕生日よりも 1年のうち他のどんな日よりも。

最初のうち 私たちは集まると彼の事を話した。
そして、まるで何かの儀式のように
彼と一緒に撮った映画を観た。(そこには19歳の私が映っていて、毎年気恥ずかしさが増していたけれど)

時が経つにつれて だんだんと私たちはこの日に自分たち自身の話をするようになった。この1年、何をしてきたか。この次の1年で、何を達成したいか。そんな「報告と抱負」という新たな意味を持つようにもなった。

あれから9年の月日が流れて 生きている私たちは当たり前のように皆年をとってゆくし 考え方も生き方も変ってゆく。何者でもなかった私たちは今 絵描きだったり 渡米して学生してたり 会社員してたり 社会起業家してたり 劇団の主宰者してたりする。けれど1つの死が 多くのバラバラの生をこんなにも強く結び付けている事の意味を毎年考える。

私は、自分が死ぬとき こんな風に生きている人を結びつけるように
うまく言葉に出来ないけれど そんな風にこの世を去れるだろうか。
私が死んだ時 私が描いた絵は、少しでも足跡となって 誰かの中に残るだろうか。そんな深い足跡でなくていい。浜辺に打ち寄せる波が 一瞬砂浜の色を変えてすぐ元に戻るような そんな程度でいい。それすらも傲慢な 大それた願いかもしれないけれど。

地球一周中にグアテマラで車に轢かれた事が、自分自身で思っているよりも強く尾を引いているなあと 最近よく思う。傷は何も残っていないけれどガツン!というあの衝撃が、今も一日の中で繰り返し、繰り返しやってくる。
角を曲がる瞬間。
家のドアを開けた瞬間。
電車を降りた瞬間。
圧倒的な力によって 何かを考える時間もないまま
一瞬にして人生が終わる瞬間の事を本当によく考えるようになった。
そういう時の心の中はくろひげ危機一髪とよく似ている。
いつ飛び出すかわからないものを待ちながら 
刀をいっぽん、いっぽん刺していっているような気がする。

いつ「その瞬間」が訪れるかは、分からない。
だからこそ、今日生きていられたことに、感謝。
生かされている時間の価値を最大化すること。
いつ死んでも後悔しない、というのとは違う。
後悔が残るほど、高い目標を持ち続けられる生き方が出来たらいいと思う。

また1年、頑張ろう。
来年も胸を張って彼に語れるように。