img20080627_1.jpg


今年もこの日がやってきた。
九年目、十回忌。十回目の、回帰。今年の6月26日は、一日、雨。
1999年のこの日、一緒に映画を撮っていた友人が踏み切り事故で見知らぬ人を助けて亡くなった。その日から一週間後に学祭で上映するための映画を撮っている最中だった。
そうだ、その日もこんな風に雨が降ってた。

いつものようにお墓参りをして、そのあとひたすらに電車とバスと乗り継ぎ、湘南の畑の中にぽっつりと建っている母校に数年ぶりにいってみる。その変化と進化ぶりにびっくりし、変わっていない場所にはほっとして、学食でソフトクリームを食べたり、大きな階段教室の授業に紛れ込んでみたりした。ここにもう私の居場所はないのだけれど、それでもキャンパスを歩いているといろいろな記憶が波のように押し寄せる。学生時代によく行っていた美味しい和食やさんでいつものように皆でごはんを食べて、そして踏み切りに集まった。去年それぞれが掲げた目標を思い出しながらこの1年でそれがどれだけ達成できたかを報告して、そして来年までにそれぞれが達成したいことを発表した。

6月26日は、私のもうひとつの誕生日だ、と思った。
1年で起きたいろいろな事をこの場所でふりかえって、新しい1年へと繋げていく。甘えた自分に喝を入れる。そんな風に自分の誕生日よりも、大切な意味を持つ日。

運ってなんだろう。縁ってなんだろう。
偶然ってなんだろう。必然ってなんだろう。
どうして、この世の中には宝くじで1億円当たる人もいれば
何も悪いことしていないのに休日に出かけただけで命を奪われる人がいて
人の命を奪いながらも笑顔で寿命を全うする人もいれば
彼のように自分の命を見知らぬ他人の為に投げ出せる人がいるのだろう。
不思議で仕方がない。何がどうなって、そうなるのか、どんな気まぐれやささいなきっかけの連なりか分からないけれど、彼は今ここにいなくて私はここにいる。

9年も経つと、気持ちにも変化が訪れる。毎年この日に日記を書いているけれど、毎年同じ気持ちを抱いているようで、実際は確実に違っていくのが分かる。それこそが時間が経つ意味だと思う。最初の頃のような苦しみや悲しさは薄れていく。だんだんと皆も以前のように普段から集まったり出来なくなって、今年は、彼の事よりも皆の近況について話している時間の方が長かった気がする。

けれどそれは、決して彼の事を忘れてしまったからではない。その逆だ。悲しみや喪失は時と共に風化していくものではなく、逆に時間が経つほど自分の一部となり、その色を濃くしていく。

生きてさえいれば何かが起きる。それだけは間違いない。良いことも、もちろん悪いことも起きる。いつ何が起きるかなんて本当に分からなくて、こうしてこれを書いている私が明日存在している保証なんて全くない。仕事が忙しいとか、人間関係がうまくいかないとか、なんだかやる気がないとか、そんななんでもない日々の悩みをもてる「自分」が存在しているということ、それがどれだけすごい奇跡の上に成り立っていることか!

私が自分の生き方でもって彼が存在していた事の意味を証明しよう。
なんて言い切れたらいいのだけれど、彼が19歳という若さで成し遂げたことは、28歳になる私にとってもまだ眩しすぎて届かない。けれど絶対に忘れることだけはない。この世のほとんどの人が彼という人間が存在していた事すら知らなくなっても、私はこれからもずっと死ぬまで、自分の身体が動く限り6月26日にはあの場所に行って、こうして思い出して、皆で彼の話をして、言葉にしよう。彼が亡くなった日に生まれなおそう。

いつかまた彼に胸張って会えるような生き方をすること。
それが私の人生の目標。

また来年。