img20090812.jpg

昨日の地震のこと。

友人から「揺れでびっくりして起きたけれどコンタクトをしていなかったから何も見えず危なかった。レーシックをしないと東海大地震は生き残れない気がする」というメールが来た。

5階に住んでいるにも関わらず地震に気づかずに熟睡していた私は、
レーシック云々に関わらずそもそも生き残れないと思いました・・。

というのは置いといて。
週末に、妹の結納の会がありました。
大野家始まって以来の一大イベントであります。
広島から先方のご家族がわざわざいらっしゃるということで
前日の夜からみんなしてリハーサルしました。
結納というものは私は知りませんでしたが、ものすごく段取りや、手順や、口上などが伝統的に決まっており
ちゃんとやろうと思うとものすごくちゃんとしなくてはならないものだという
事が判明。こんな感じ。みんなが台詞を頑張って暗記していたり、動き方を練習している様子は演劇の本番直前のゲネの時の雰囲気にそっくりで、「現場は一時騒然としました」って言いたくなった。帰るまで気軽に考えていた私までその緊張に飲み込まれ、ともかくも一緒に練習。

結納本番は、参加者全員がものすごく緊張しつつもその時間一生の記憶に残るものにと一丸となっている空気がすごく愛しい感じだった。あんなに練習してたのにやっぱりちょっといい間違えてたり、微妙に棒読み感があるところも逆にすごくいいものだと思った。私は桜茶を出す係りだったけど「おおおおおおおちゃでございます」ってならないように頑張った。

みんなが終わった瞬間に「は~!!」って緊張を解いて「おつかれー!」みたいな、それこそ芝居の幕が下りた時とおなじような雰囲気になったときに、
私は本当の結納の意味が分かった気がしました。

結納のプロセスが複雑な事、それ自体が大事なわけではないのだきっと。
複雑なプロセスを、それぞれの家が協力して乗り切ることで、
全くの他人同士の2つの家族が結ばれる。
「幾久しくご受納下さい」に意味があるのではない。
あの「は~!」が結納なのだ。

だってその後の ラ・マーレ・ド・茶屋での会食の雰囲気は
なんだか千秋楽の後の「打ち上げ」って感じだったもの。笑

と、あくまで脇役の私はいろいろ考えました。

これからも思い出してふふっと笑ってしまいそうな良い日だった。
私にもいきなり同い年の弟が出来るのだ。
なんかくすぐったくて嬉しい感じ・・。

妹よおめでとう。誰より幸せになっておくれ。
幾久しく。

それにしても家族の風景をたくさん見た。
家があんな雰囲気になったことはかつてなかった。みんなドギマギしていた。
幸福な寂しさをみんなで共有しながら、目の前のことに集中。
これまで30年間変わらずあった関係が根本的には変わらないけれど
表面的には大きく変わるのだ。

何もかもが流れて変っていくんだなあ。
変わらないものはない。
昨日と同じ今日はない。今日と同じ明日はない。

ずっとあたりまえだったことが
あたりまえじゃなくなる瞬間は、必ずやってくる。

だから今を、大事にする。