こだま和文さんという方の素敵なふくろうを見たら久しぶりに描きたくなって、それで描いたふくろう。小学生の時から私はふくろうが大好きでよく描いていました。特に哲学者みたいな、あの目が好き。360度見渡して、何を考えているのやら。メキシコで洞窟を観光していたら、いきなり真っ白なふくろうがいてじーっと見つめられたのが今でも忘れられなくてそれ以来私のふくろうのモデルはいつもその白いふくろうになったのです。
2004年05月
はつたいけん!
「こーんな電車がここば通っていたとね!」(「農業少女」野田秀樹)
という台詞を素で叫びたくなってしまった、それは世田谷線。三茶歴2年目にして初めて乗りました。普段乗ってる人にとったら何を今更!な事なんだろうけど、こんな東京のど真ん中に地元鎌倉の江ノ電に勝るとも劣らないローカルな雰囲気ぷんぷんの電車が走っていた事に感動。だっていまどき二両(あれ、四両くらいはあったかな)編成、料金はどこまでいっても一律130円、改札には人がいて、機械に直接現金を入れる仕組み。そして速さは多分、全力で自転車に乗った方が速い。参考書を開いている中間試験前の中高生やらがたくさん乗っていて、なんだか電車のレトロな雰囲気と相まってタイムスリップしたような気分になりました。
という台詞を素で叫びたくなってしまった、それは世田谷線。三茶歴2年目にして初めて乗りました。普段乗ってる人にとったら何を今更!な事なんだろうけど、こんな東京のど真ん中に地元鎌倉の江ノ電に勝るとも劣らないローカルな雰囲気ぷんぷんの電車が走っていた事に感動。だっていまどき二両(あれ、四両くらいはあったかな)編成、料金はどこまでいっても一律130円、改札には人がいて、機械に直接現金を入れる仕組み。そして速さは多分、全力で自転車に乗った方が速い。参考書を開いている中間試験前の中高生やらがたくさん乗っていて、なんだか電車のレトロな雰囲気と相まってタイムスリップしたような気分になりました。
眠れない夜には らくがきの
ひつじを数える。この週末に描いたらくがきの枚数、載せてないのもいれたらなんと全部で9枚!我ながらいっぱい描いた。
コーナー化!今日のらくがき
最近毎日更新。今日のらくがき。めざせ、一日一枚。
今日のらくがき
マーカーとクレヨンのハーフみたいな新しい画材に出会ってうきうきしながら描いてみた最初のらくがき。クラッキングしてみました。
もしかしたらちょっといい話。
クリーニングやさんに洗濯モノをとりにいったら、私の前でなにやらゴネているおばさんがいました。その人は、自分が2ヶ月も前に出してずっと取りに来てなかったものがないと言って怒鳴っているのです。さらに受け取り票をなくしているくせに、全く悪びれないどころかとにかく探して出してこい!と怒るばかり。その時点で後ろには私含め人が並んでいて、閉店時間が近いにもかかわらず。結局おばさんは明日朝いちで連絡して!と電話番号のメモをたたきつけて出ていきました。 私はすぐに終わったんだけど、出る時に思わず「大変ですね 頑張ってくださいね!」という言葉が口をついて出た。そうしたら、その店員さんが一瞬すごく泣きそうな顔になって、それから満面の笑みでありがとうございます!とおじぎしてくれました。それだけ。ただそれだけの事が今日一日で一番印象に残る出来事でした。私が言ったのは当たり前のなんでもない事だったのに、たったそれだけの事で誰かがあんな笑顔を見せてくれるなんて申し訳ない。でも、私もうれしくなっていい気持ちになった。よかったよかった。私もそうだけど、誰か一人でも味方がいてくれ
ればとても強くなれるものなんだ。明日あのおばさんのワインレッドのパンツとジャケットやらが見つかればいいけど。
ればとても強くなれるものなんだ。明日あのおばさんのワインレッドのパンツとジャケットやらが見つかればいいけど。
今日のらくがき
机が墨だらけ。
てつがくのネコ
自分の人生に「確信」を持って生きている人なんて、どれくらいいるんだろうと思う。
いろいろな人たちが、人生について語るとき、
それは一見確信と自信に基づいているように見える。けれど誰だって、自分の人生をひっくり返されるわけにはいかないから、どうしたって保守的にならざるを得ない。私もそうだ。
年を重ねるほど、そうなると思う。それは全然悪いことでもない。自分の人生から、人生を語るのは当たり前のことだ。哲学だってそう。
ただ私が思うのは、どれだけ何かが力を持っている言葉のように思えても
決して絶対的なものではありえない、ということ。それが、無宗教という事かもしれない。
長く生きている人の言っている事が正しいかといえばそうではないし、それはその人が歩いた道筋から得たことで同じ道でも違う人が歩けば全く違う事を考える。
体験してない事については何も語れない。
でも誰も生きている間に「全て」を体験できるわけじゃないし
「全て」に出会えるわけじゃないし
「全て」の場所に住めるわけじゃない。
「全て」のうち、自分の体験したほんのちょっぴりの部分からいろんな事を考えて、それを紡いで、なんとなく自分の人生の手摺にしたりする。そしてそれをたまに、まるで確信があるみたいに、人に話してみたりする。
何がいいたかったのかというと例えば自信をなくしている時なんて、周りの人はみんなとても確信をもって堂々と生きているように見えて自分が取り残されているように思えたりするものだけど生きることに全く不安じゃない人なんて、いないんだ。大人も、子供も。
生きていると何回も扉がたくさんある場所につく。扉を開けると道があって、しばらく進むとまた扉がある。いくつもの道の中から選べるのは1つだけだけど、その時選ばなかった他の道やその先にあるもののことを少しも考えない人はきっといない。
時間が経てば経つほど、「もしかしたらありえたかもしれない人生」の数は減っていくのは、当たり前。だから分かれ道につきあたったら、本当に自分の頭で考えなければいけない。私はまだ自分の人生に何の確信もないけれど
とりあえず目の前にある扉は、開けないといけない。たどりついた場所がべストだったと思えるためには、まず全力で生きなければな。「運命」って結局全力で考えて扉を開けていく事なんじゃないかな。手をぬいたらきっと後悔する。
いまさらながらミスチルの「誰の真似もすんな 君は君でいい 生きる為のレシピなんてない」というのは良い言葉だな、と思いました。最後に急にミーハ-。
いろいろな人たちが、人生について語るとき、
それは一見確信と自信に基づいているように見える。けれど誰だって、自分の人生をひっくり返されるわけにはいかないから、どうしたって保守的にならざるを得ない。私もそうだ。
年を重ねるほど、そうなると思う。それは全然悪いことでもない。自分の人生から、人生を語るのは当たり前のことだ。哲学だってそう。
ただ私が思うのは、どれだけ何かが力を持っている言葉のように思えても
決して絶対的なものではありえない、ということ。それが、無宗教という事かもしれない。
長く生きている人の言っている事が正しいかといえばそうではないし、それはその人が歩いた道筋から得たことで同じ道でも違う人が歩けば全く違う事を考える。
体験してない事については何も語れない。
でも誰も生きている間に「全て」を体験できるわけじゃないし
「全て」に出会えるわけじゃないし
「全て」の場所に住めるわけじゃない。
「全て」のうち、自分の体験したほんのちょっぴりの部分からいろんな事を考えて、それを紡いで、なんとなく自分の人生の手摺にしたりする。そしてそれをたまに、まるで確信があるみたいに、人に話してみたりする。
何がいいたかったのかというと例えば自信をなくしている時なんて、周りの人はみんなとても確信をもって堂々と生きているように見えて自分が取り残されているように思えたりするものだけど生きることに全く不安じゃない人なんて、いないんだ。大人も、子供も。
生きていると何回も扉がたくさんある場所につく。扉を開けると道があって、しばらく進むとまた扉がある。いくつもの道の中から選べるのは1つだけだけど、その時選ばなかった他の道やその先にあるもののことを少しも考えない人はきっといない。
時間が経てば経つほど、「もしかしたらありえたかもしれない人生」の数は減っていくのは、当たり前。だから分かれ道につきあたったら、本当に自分の頭で考えなければいけない。私はまだ自分の人生に何の確信もないけれど
とりあえず目の前にある扉は、開けないといけない。たどりついた場所がべストだったと思えるためには、まず全力で生きなければな。「運命」って結局全力で考えて扉を開けていく事なんじゃないかな。手をぬいたらきっと後悔する。
いまさらながらミスチルの「誰の真似もすんな 君は君でいい 生きる為のレシピなんてない」というのは良い言葉だな、と思いました。最後に急にミーハ-。
今から帰宅
今やっと仕事が終わり、この時間に会社をでました。タクシーに一人で乗るのずっと嫌だったけど最近は全然平気になった。大学で残留する時も同じだけど、寝ないで迎える夜明けは、つらいんだけどなんかちょっと得した気分になれる。ちょうど夜があけていく時のあの空の色が見られるのは、寝なかった人の特権のような気もします。でも、うーん眠い。
やっと会えました
会社の方のおうちにお邪魔してやっと会えた、アートくん!こんにちは、おうわさはかねがね。と、下のデナリも申しております。予想をはるかに上回るキュートさ。お料理もおいしく、素敵な空間で日曜の夜は更けていきました。