6月の終わりにはいつも同じことを考える。何回かここのブログにも書いているけれど、6月26日というのは私の大学時代の友人の命日。一緒に映画を撮っていた仲間は、私たちがいたところからたった数十メートルの場所で特急の電車に轢かれて亡くなった。線路内にいた酔っ払った人を助けようとして、結果巻き込まれてしまったのだ。
あれから20年。それだけの年月が経つと悲しくないわけではないけれど、風化するということはあって、思い出すと遺跡を訪れているような気持ちにもなる。友人の死を英雄譚として語りたいわけではなくて、人生の物語にしてひたりたいわけではなくて、それでも、20年も経っても、私は今も、毎日、毎回、踏切の前に立つ度に、電車のホームで目の前を特急が通過していく度に、体がギュっと恐怖ですくむ。そして「その瞬間」に踏切の中にいた彼のことを考えるのです。一生そうだと思う。その時その場所にいた仲間たちで毎年命日に集まるのももう20回目。(神戸に来てからは私は行けてないのだけど…)彼の存在が、私たち全員を今も結びつけてる部分が確かにある。夫のうしくんもその一人。
身を呈して誰かを助ける、とか、その時の彼はそんな崇高な気持ちでいたわけではないと思う。でも、それでも自然と体が動いたんだと思う。そういう人だったんだと思う。一人の人間の生き方が、生き様が、残された人の生き方にいかに大きな影響を与えるか。どれほどのメッセージを残せるかは計り知れない。いろいろな肉体の去り方があり、その全てが残った周囲の人間を大なり小なり変えていくし、それが宇宙に生きた証と、痕跡と、なるのだと思う。
でも、でも。
彼はその時18歳で、同級生だったはずの私も今はなんなら、彼の母親でもおかしくない年になってしまったし、彼の倍以上生きて、親になって、今どうしても思ってしまうことは。
身を呈して人を助けたりしなくていいから、英雄になんてならなくていいから、まわりに何て言われても、卑怯ものでも、敵前逃亡でもいいから、自分を守ることを、生き残ることを最優先にして、とにかく生きていて欲しい。
何があるかわからない世の中だけれど。
いつ誰に何があってもおかしくないけれど。
かっこよく死ななくていいから、かっこわるくても生きててほしい。
今はどうしてもそう、思ってしまう。