
先日、弾丸で神戸に遊びにいってきて、懐かしく嬉しい再会がたくさんあった。娘たちも大好きなお友達たちに会えて、帰る前の日の晩に布団の中で「かえりたくない」とさめざめと泣いた。それを見ているとせつなくなるけれど、それほどまでに「だいすき」な場所があることは幸福なことだ。そして、それは外に出てみて、はじめてわかること。当たり前が、宝物だったこと。
神戸には、ちょうど4年住んだ。
見慣れた景色、いつもの公園、行きつけのカフェ、毎日乗ってた阪急電車。
でももうそこに自分の家はない、ということがただただ、不思議な感じだった。
住んでいたところに旅行する、という脳がチリッと混乱するような感覚。
下北沢に根ざしてた私は、神戸に引っ越すとわかったとき、行きたくない、離れたくないと心から思った。けれど泣きそうな気持ちで関西に赴いて4年、神戸はまた私の大好きな場所になった。新たな友、家族みたいに一緒にいられる人たちとの出会い。下の子が生まれた時、同じタイミングで第二子が生まれフルタイムで働きながらの2人育児、という最も大変なフェーズを一緒に頑張った保育園のママ友たちとは一生の戦友のようになれた。留まっていたら、一生出会えなかった人たち。新しい輪がひろがって、新しく糸が交差して、その模様は後から眺めて全体を見てみて、はじめてわかるものなのではないかと思う。そうか、こういうことだったのかって。
誰にだって環境の変化は大きな負担だ。引っ越しなんて物理的にも精神的にも大変すぎて悲鳴をあげそうなくらいだし、自分にも家族にも大きな負荷がかかる。けれど大きな流れや変化に、さからわずに身を任せられるようになった時、そんな全てが意味を持ち、世界を広げ、心の筋肉となってゆくように思う。年をとり、いくつものフェーズの変化があり、ふるさとと思える場所が増えていく。大事なものが、大事な場所が、大事な人が、増えていく。
人生はやっぱり、旅だ。
ひとつの場所から、またひとつの場所へ。
毎日会えなくなっても、会いにいけば会える。大事な場所、大事な人は、富士山みたいなもの。普段目にしなくても、動かずに、確実にそこにあってくれて、どこか心強い気持ちにさせてくれるもの。私も友にとってそういう存在であれたらいいな。
今いる場所だって、同じ。糸は紡がれ続けてる。今でしか描かれない模様が描かれ続ける。だからこそ、常に現在位置が、最良であると信じる。