sora

昨日たまたま幼稚園から高校1年まで住んだ懐かしい町に久しぶりに行ったので、アラスカに引き続き心が遠くまで飛んでいった。懐かしい場所を久しぶりに訪れた時に湧き上がる感情、は、懐かしい場所を久しぶりに訪れた時にしか湧き上がらない。
場所は、口を指でイーって左右に開いて「金沢文庫って言ってみて」のあの小学生男子的自虐ギャグで有名(?)な金沢文庫です。ちなみに。あれ、まだやる子どもはいるんだろうか。

駅前の「ユニー」は「アピタ」という名前になってて、あとは立派なツタヤが出来てたりしたけど、びっくりするくらい何も変わっていなくて、よくここのミスドでお茶したなあ、とか、ユニーの中の「すがきやすーちゃん」に買い物ついでに連れて行ってもらうのがすごく楽しみだったなあ、とか、父親がたまに駅にある31アイスをお土産に買ってきてくれたなあ、とかいろいろ思い出した。今アピタの中を歩いてみたら、私一体ここで何が欲しいと思ってたんだろう、と思う微妙すぎる品揃えだったけれど(笑)小さい時の私にとっては洋服もお菓子もおもちゃも、もう夢のように欲しいものがたくさんある、遊園地みたいな場所だったのだ。母が「ユニーに買い物に行くけど一緒に来る?」と小学生の私と妹に尋ねる時、私たち2人はいつも「いく!!」と部屋から飛び出していった。

きっと誰にだってある、懐かしい土地、懐かしい場所、懐かしい人。

そんな場所を訪れることは、自分の中にある博物館を一人でゆっくりたずねるみたいだと思う。今はもう現実には存在しない(存在している場合も、変化している)思い出や場所や人が、時代ごとに記憶の中で整理されて並んでいる。普段は都合よく抽出して編集した物語だけを思い出しているのが、実際にその場所に行くと忘れていた記憶も呼び起こされて、博物館のシアタールームの中にいるように映像が再生される。
それは確かに現実にあったことなんだけれど、自分は確かにその延長線上に作られているのだけれど、長い時間が経ってしまうとそのリニアな繋がりに確信がもてなくなって、まるで他人の人生のようにさえ思われる。展示されているものと見る主体の間に客観性がある。時間は、楽しかったことも、苦しかったことも全部「○○期」として展示物に変化させる。そんな心の中の博物館。行く必要は別にないところなんだけれど、たまに入って出てくるとちょっと日常の遠近感が変わっている。
人が「昔」を「昔」として認識するのにどのくらいの時間が必要なのだろう?「懐かしい」という感情は、どこから来るんだろう?

子どもの頃の自分にとって「大きくて、絶対で、無限」だったものって、大人になってから見るとだいたいほとんどが「小さくて、脆弱で、有限」だ。それでも、あれ、こんなだったっけ、とがっかりしたりはしない。逆にそのことをより愛しく思う。何にでも無限を感じられていた昔も、そこには果てがあるということが分かる今も。