ごはんは炊飯器で炊く。
一時期は天然生活にあこがれて、土鍋で炊いていたのだけれど、何せ狭い台所でコンロが2つしかないので、早々にあきらめた。それに、今の炊飯器の性能はすごい。炊飯器でだいたい2合炊いて、そのとき食べる分だけを食べて、残りは1回ぶんずつサランラップできっちりくるんで、さっさと冷凍する。なるべく炊きたてのうちに冷凍した方が蒸気が閉じ込められて、チンした時に美味しく食べられる。
先週帰省してたときのこと。何ヶ月かぶりで、しかも珍しく長めの滞在だったので、港の採れ立ての魚の味や、おばあちゃんのごはんが懐かしくて、うれしかった。実家では毎日のようにごはんを炊く。でもうちでは父親がお酒を飲むからあまりごはんを食べないし、おばあちゃんも小食だし、ごはんはだいたい余る。でも、おばあちゃんは炊きたてをすぐにラップして冷凍したりしない。
そのかわり、ごはんのあとしばらくしてから、おもむろに余ったごはんでおむすびを作る。中身はだいたい、余った鮭の身だったり、昆布だったり、お歳暮でもらった明太子だったり、おばあちゃん特製の梅干だったりする。綺麗な形のおむすびが、お皿にひとつずつ並んでいく。そして、それはそのままそこに放置されている。ぱりっとした海苔も傍らに置いてある。おばあちゃんは作ったよ、とも食べて、とも別に言わない。
みんなごはんを食べたばっかりで、おなかはいっぱい。でも、ホカホカのおむすびがきっちり並んでいるのは、なんともおいしそうに見えて、つい、1個もらうね、と手をのばしてしまう。冷めてもおいしいし、夜が更けてくると小腹がすくから、またひとつ、またひとつ、誰かが手をのばす。冷凍もされず冷蔵もされず(まあ、さすがに真夏にそれはないけれども)、何の主張もなくただなんとなくそこに並んでいるおむすびは、ただなんとなく減ってゆき、次の日の朝までにいつの間にかなくなっている。
炊きたてをすぐにラップで包んで、冷凍して、チンして食べたいときに食べるのは無駄がないし合理的だ。でも、そこには何の余白も余裕もない。後ろに何かがつっかえているような、パツンパツンな感じがする。人間が何人も暮らし、みんなが自分の都合で動いている中で、実のところ中心にあって家族を結び付けているのは、おばあちゃんのおむすびのような、なんとなくそこにあるもの、そういうのりしろなのではないかと思った。それが一番みんなをゆったりとさせ、にっこりさせる。
東京で働きながらせっせと暮らしていると、ついそういう余白のない方向に傾いてしまう。冷蔵庫の中身が減ってくると焦って、食材をどっさり買ってきていっぱいにして、今度は悪くならないうちに全部使い切らなくちゃ、と焦って、一生懸命何かを作って、食べて、作りすぎたらまた小分けにして冷凍して、中身が減ってきてまた焦る、の繰り返し。無駄にしちゃいけない、合理的に動かなきゃもったいない、全般的にそんな風に進んでいっているような気がする。
実家を離れて長いので、今回の帰省で、ごはんの後にのんびりならんでいるおむすびを見たときに、すごくなつかしくて、大切なものを思い出した気がした。私が本当に小さい頃からそのことが変わってない、それも嬉しかった。ちなみに私は小さいころ、「おにぎり」が言えなくて「にんにん」と言っていたので、おばあちゃんは今でもおむすびのことを「にんにん」と言う。「おなかがすいた」と言ったときに「にんにんあるよ~」と答えてもらえると、心の中にぱっと火がともるのは、今も昔も同じ。私と妹は、外からは見えない具の当てっこをしたりしたものだ。
おばあちゃんのおむすびは、いつ食べても、どんな具でも、どれだけおなかがいっぱいでも、この世で一番美味しいもののような味がする。夜中にこっそりひとつ食べるのなんて、たまらない。
今は私がおむすびを作っても、次の日に全部なくなってるほど人がいないから、これまでと同じように炊いたら冷凍するのかもしれないけれど、それでも一部でおむすびをこさえてみようと思う。あんな綺麗な三角にはならないけれど、梅干だけは、おばあちゃんからもらったものだから、きっと同じように美味しくできるはず。
そのかわり、ごはんのあとしばらくしてから、おもむろに余ったごはんでおむすびを作る。中身はだいたい、余った鮭の身だったり、昆布だったり、お歳暮でもらった明太子だったり、おばあちゃん特製の梅干だったりする。綺麗な形のおむすびが、お皿にひとつずつ並んでいく。そして、それはそのままそこに放置されている。ぱりっとした海苔も傍らに置いてある。おばあちゃんは作ったよ、とも食べて、とも別に言わない。
みんなごはんを食べたばっかりで、おなかはいっぱい。でも、ホカホカのおむすびがきっちり並んでいるのは、なんともおいしそうに見えて、つい、1個もらうね、と手をのばしてしまう。冷めてもおいしいし、夜が更けてくると小腹がすくから、またひとつ、またひとつ、誰かが手をのばす。冷凍もされず冷蔵もされず(まあ、さすがに真夏にそれはないけれども)、何の主張もなくただなんとなくそこに並んでいるおむすびは、ただなんとなく減ってゆき、次の日の朝までにいつの間にかなくなっている。
炊きたてをすぐにラップで包んで、冷凍して、チンして食べたいときに食べるのは無駄がないし合理的だ。でも、そこには何の余白も余裕もない。後ろに何かがつっかえているような、パツンパツンな感じがする。人間が何人も暮らし、みんなが自分の都合で動いている中で、実のところ中心にあって家族を結び付けているのは、おばあちゃんのおむすびのような、なんとなくそこにあるもの、そういうのりしろなのではないかと思った。それが一番みんなをゆったりとさせ、にっこりさせる。
東京で働きながらせっせと暮らしていると、ついそういう余白のない方向に傾いてしまう。冷蔵庫の中身が減ってくると焦って、食材をどっさり買ってきていっぱいにして、今度は悪くならないうちに全部使い切らなくちゃ、と焦って、一生懸命何かを作って、食べて、作りすぎたらまた小分けにして冷凍して、中身が減ってきてまた焦る、の繰り返し。無駄にしちゃいけない、合理的に動かなきゃもったいない、全般的にそんな風に進んでいっているような気がする。
実家を離れて長いので、今回の帰省で、ごはんの後にのんびりならんでいるおむすびを見たときに、すごくなつかしくて、大切なものを思い出した気がした。私が本当に小さい頃からそのことが変わってない、それも嬉しかった。ちなみに私は小さいころ、「おにぎり」が言えなくて「にんにん」と言っていたので、おばあちゃんは今でもおむすびのことを「にんにん」と言う。「おなかがすいた」と言ったときに「にんにんあるよ~」と答えてもらえると、心の中にぱっと火がともるのは、今も昔も同じ。私と妹は、外からは見えない具の当てっこをしたりしたものだ。
おばあちゃんのおむすびは、いつ食べても、どんな具でも、どれだけおなかがいっぱいでも、この世で一番美味しいもののような味がする。夜中にこっそりひとつ食べるのなんて、たまらない。
今は私がおむすびを作っても、次の日に全部なくなってるほど人がいないから、これまでと同じように炊いたら冷凍するのかもしれないけれど、それでも一部でおむすびをこさえてみようと思う。あんな綺麗な三角にはならないけれど、梅干だけは、おばあちゃんからもらったものだから、きっと同じように美味しくできるはず。