
子が生まれてからどんと接する機会が増えた赤ちゃん、子どもたち。本当にみんな違う。同じ月齢でも、同じような家庭環境で同じように育てられていても、全く性格が違う。ご近所のママさんに双子ちゃんがいるけれど、双子でも全然キャラが違う。おとなしい子、ガンガン行く子、好奇心旺盛な子、大胆な子、慎重な子、計算する子、後先考えない子(ピノだ)。
タブラ・ラサな部分だけじゃない。みんな新生児として生まれた時から、カラフルな絵の具みたいに色が違う。子どもたちが束になって遊んでるのを見てるのは永遠に飽きないほど面白い。何度も書いちゃうけど、転生の記憶ってあるよなあ、って思わざるを得ない。
子どもがどう育つか、親次第のようで、魂レベルに関しては親が関与できる部分はすごく少ないように思う。魂年齢は大人も子どもも関係ないから。地球で3回くらいしか転世してない大人もいれば、300回転世してる0歳児だっているから。魂そのものはいつでも「今回こういう風に生きるぞワタシ!」って地球にくる前から決めてきてるんじゃあないか、子は親を選べないと言うけれども、本当の本当はやっぱり魂が選んだ場所に生まれてきているんじゃないかなあと思う。
肉体的にこの世界で先輩である親にできることは、子どもが魂の色を表現するための白い画用紙を与えることくらいで、画材を何にしろとか、道具はこれを使えとか、こういう場所で描けとか、そういうことを決めることはできない。一見それを決められる権限や能力があるようで、それで描かせることができそうに思えても、それが子どもの魂と食い違うものだったら、おそらく最終的には違う場所に行ってしまう。誰も教えなくても、きっと自力でそこに行くだろう。
都会で育てるか、田舎で育てるか。日本か外国か。働くママに育てられるか、専業ママに育てられるか。保育園なのか幼稚園なのか。一人っ子か兄弟たくさんか。習い事させるかさせないか。英語教育を早くからするかしないか。親にとっていろんな選択肢や分岐点の中での迷いはキリがないし、何かあった時に「違う道を選んでいれば」と思うこともありそうだと思うけれども、結局「こうしたからこうなった」というのは自分が納得するために過ぎなくて、親がどんな道を選んだって「その子はその子が決めてきた方向を目指す」と思えば気楽でもある。
家庭環境の影響は絶大だから、何もしなくても同じだからいいとか、そういう投げやりな意味ではない。でも親が関与してコントロールできる部分は子の「全部」ではないことを、ちゃんと知っていなくてはと思う。親は「子どもが自分自身になっていく」過程をなるべく手伝うことしか出来ない。根源的な部分は育児とか教育とかを超えたもっと大きな扉の奥に光を放ちながら最初からある、そう考えると切ないような気もするけど肩の力が抜ける気もする。ある意味何をどうしたって関係ないところにその部屋はある。親と子だからといって上下関係というわけではない。違う肉体を持つ違う人間同士、対等な目線で、その瞳が何に輝いているのかをただただ観察してみたい。
1歳5ヶ月になったピノが最近「ちょうちょ」と言えるようになった。(他に言えるのは「ママ」「パパ」「ワンワン」「ニャンニャン」だけ)そうしたら今日、シャボン玉で遊んでいる時に、泡が2個くっついてフヨフヨ漂っているのを指差して、「ちょうちょ、ちょうちょ!」とはしゃいでいて、私はびっくりしてしまった。キラキラ光るシャボン玉の泡、それが「ちょうちょ」だと思うんだ!!その感性、それは私から遺伝したものでも教えたものでもなく、彼女の魂が生まれ持った世界の見方なんだと思った。
子どもが自分らしい絵を描けるようになるために。
画材を選ぶのも道具を選ぶのも、何を描くか決めるのも本人だけれど、
なるべく、大きな紙を、用意してあげられるのが大人だと思う。
思いっきり描いてもはみ出さないくらいの、
いろんな絵の具バケツをひっくりかえしても受け止めるくらいの、
ひたすら一点をグリグリしても破れないくらいの、
罫線や方眼なんてない、真っ白で自由な紙を、敷いてあげたい。
(と、日に日にやんちゃ度と自由度が増して、クレヨンを渡そうものなら紙なんてすぐはみ出して壁から床から服から顔からあらゆるものをキャンバスとしているピノを眺めながら、遠い目で思う訳です。)
肉体的にこの世界で先輩である親にできることは、子どもが魂の色を表現するための白い画用紙を与えることくらいで、画材を何にしろとか、道具はこれを使えとか、こういう場所で描けとか、そういうことを決めることはできない。一見それを決められる権限や能力があるようで、それで描かせることができそうに思えても、それが子どもの魂と食い違うものだったら、おそらく最終的には違う場所に行ってしまう。誰も教えなくても、きっと自力でそこに行くだろう。
都会で育てるか、田舎で育てるか。日本か外国か。働くママに育てられるか、専業ママに育てられるか。保育園なのか幼稚園なのか。一人っ子か兄弟たくさんか。習い事させるかさせないか。英語教育を早くからするかしないか。親にとっていろんな選択肢や分岐点の中での迷いはキリがないし、何かあった時に「違う道を選んでいれば」と思うこともありそうだと思うけれども、結局「こうしたからこうなった」というのは自分が納得するために過ぎなくて、親がどんな道を選んだって「その子はその子が決めてきた方向を目指す」と思えば気楽でもある。
家庭環境の影響は絶大だから、何もしなくても同じだからいいとか、そういう投げやりな意味ではない。でも親が関与してコントロールできる部分は子の「全部」ではないことを、ちゃんと知っていなくてはと思う。親は「子どもが自分自身になっていく」過程をなるべく手伝うことしか出来ない。根源的な部分は育児とか教育とかを超えたもっと大きな扉の奥に光を放ちながら最初からある、そう考えると切ないような気もするけど肩の力が抜ける気もする。ある意味何をどうしたって関係ないところにその部屋はある。親と子だからといって上下関係というわけではない。違う肉体を持つ違う人間同士、対等な目線で、その瞳が何に輝いているのかをただただ観察してみたい。
1歳5ヶ月になったピノが最近「ちょうちょ」と言えるようになった。(他に言えるのは「ママ」「パパ」「ワンワン」「ニャンニャン」だけ)そうしたら今日、シャボン玉で遊んでいる時に、泡が2個くっついてフヨフヨ漂っているのを指差して、「ちょうちょ、ちょうちょ!」とはしゃいでいて、私はびっくりしてしまった。キラキラ光るシャボン玉の泡、それが「ちょうちょ」だと思うんだ!!その感性、それは私から遺伝したものでも教えたものでもなく、彼女の魂が生まれ持った世界の見方なんだと思った。
子どもが自分らしい絵を描けるようになるために。
画材を選ぶのも道具を選ぶのも、何を描くか決めるのも本人だけれど、
なるべく、大きな紙を、用意してあげられるのが大人だと思う。
思いっきり描いてもはみ出さないくらいの、
いろんな絵の具バケツをひっくりかえしても受け止めるくらいの、
ひたすら一点をグリグリしても破れないくらいの、
罫線や方眼なんてない、真っ白で自由な紙を、敷いてあげたい。
(と、日に日にやんちゃ度と自由度が増して、クレヨンを渡そうものなら紙なんてすぐはみ出して壁から床から服から顔からあらゆるものをキャンバスとしているピノを眺めながら、遠い目で思う訳です。)