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今、あれこれびっくりな変化がまわりにも、自分にも、いろいろ起きている。良いことも悪いことも両方向。「まさか!」と叫んでしまうような話がよくあるし、振り返ってみると最近いろいろな人の「実は・・・」発言にびっくりしてばっかりだ。でもそれって、私だけじゃないんじゃなかろうか、と思う。世の中全部がなんだかそんな流れになっている気がして仕方がない。今は地球的には葛藤や隠されたものが表面化してゆく時期らしいが、実際その通りだと思わされる出来事ばかり起きる。そしてこれからももっと起きてゆくのだろう、という予感がある。
そんなとき、どうしたらよいか。
とにかく、何だって、どんなことだって、起きる時には起きるものだ。
だから、起こらないようにするんじゃなくて、起こったときにどう対処していくかの方を考えるのがきっと正しい。RPGでレベルを上げてゆくみたいに、心の防御力を自分で高めてゆくしかない。

落とし穴に落ちたとき。
ふいに息が出来なくなったりうずくまったりしてしまうようなとき。
細くて、高いところにある平均台の上を恐る恐る、歩いているようなとき。

あるとき薄着で出かけて、昼間はあたたかかったのに夜急に寒くなって
風がびゅうびゅう吹く、凍りつきそうな真っ暗闇の中をひとり歩いている時に思ったこと。

冷たい風は、向き合って正面から受け止めようとするから、冷たい。
でもきっと、風自身は自分を冷たいとは思っていないだろう。

よし、私も風になってしまえ。そして一緒に吹いてしまえ。

と、考えを切り替えて、勝手に「びゅ~びゅ~」と怪しすぎる
謎の自己暗示をかけながら歩いていたら、不思議と寒さが軽減した。

で、考えた。

火だって、火自身は熱いと思ってないし
綿だって、綿自身はふわふわと思ってない。

風が冷たい時は、風になってしまえば寒くないのだ。
火が熱いときは、火になってしまえば熱くないのだ。
痛むときには、痛みになってしまえば痛くないのだ。

悲しさや苦しさ、混乱に飲まれてしまいそうな時はいっそ飲まれてしまえばいい。
そうしてその気持ちと融合して、まるごと1つになってしまえばいい。

悲しみも苦しみも、自分とは違う存在として対峙しようとするから、
悲しみだったり苦しみだったりするわけで、
自分が「悲しみそのもの」になってしまえば、もう悲しくない。

そうしてはじめて、ただありのままに自分として、その状態を受け入れられるのではないだろうか。悲しみそのものになったあと、そこに何かの拍子に隙間のようなものが出来たとき、そこはきっとまた喜びや幸福で満たされるに違いない。

異物として対峙しようとするといつまでも痛みは痛みのまま。
白血球が傷に集まって覆いつくすように、ミミズが土を食べてまた土を生み出すように、どんな衝撃でもその状態と「やあやあこんにちは」と勝手に仲良くなって、受け入れて、ごくんと飲みこんでみよう。